通訳ガイドが書いた「地域の歴史が学べる観光ガイドブック」研修会
のどかな大原の里は、京都市街地から10キロで、里山歩きにはぴったりの地です。スマホにつける
マクロレンズで草花を観察しながら大原を散策します。
大原は、戦乱や現世の煩わしさから逃れてきた人々を迎えてきた隠れ里で、晩秋に訪れるのにぴったりの場所です。800年以上前、建礼門院徳子が、息子の安徳天皇を偲びながら暮らした寂光院。そこへと続く「大原女の小径」を歩きます。来迎院と勝林院は、日本音楽の源流・声明の本場で、自然の中にひっそり佇む紅葉の名所。三千院への参道では、京の三代漬物の一つであるしば漬け・紫蘇ソフト・天然染料の染物を見ながら、呂川沿いの道である「響の道」を歩きます。
三千院の庭園では、杉苔が広がり檜や杉が立ち並ぶ中、「わらべ地蔵」には、思わず笑みがこぼれます。参道以外の道を、大原の里の古民家を見ながら歩いて、里山の晩秋を満喫しましょう。
(担当講師:太田貴子)
「きょうと~大原三千院♪」と歌にもなった三千院は、大原を代表する天台宗の寺院だ。最澄が比叡山に延暦寺を建てた時に結んだ草庵が始まりとされ、天台三門跡寺院(他は青蓮院(しょうれんいん)、妙法院)の中でも最も歴史が古い。
1013年、寂源により、声明研鑽の地として建立された寺。良忍が来迎院を再興すると、勝林院を本堂とする下院と、来迎院を本堂とする上院が成立。これらを中心に僧坊が建立され、数多くの僧侶が声明の研究研鑽をする拠点となり、「魚山大原寺」と総称されるようになった。
呂川に沿って、三千院の南側を300m東に少し上って行くと、来迎院がある。
来迎院は1109年、声明中興の祖である良忍により、「天台声明の根本道場」として円仁開山の寺が再興されたもの。円仁が伝えた声明を「魚山声明」として集大成し、これが後に「天台声明」の主流となって今日に伝承されている。
寂光院の草創については、明確なことはわかっていない。寺伝では594年、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創し、太子の乳母が初代住職とされているが、来迎院を創建した良忍が開いたとの説もある。いずれにせよ、この寺で有名なのは、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった、安徳天皇の生母、建礼門院徳子が、壇ノ浦での平家一族滅亡後に生き残り、尼となって、侍女の阿波内侍(あわのないし)とともにここで余生を送ったことであろう。