通訳ガイドが書いた「地域の歴史が学べる観光ガイドブック」研修会
古来、大原は、都の貴族の「癒しの里」であっただけでなく、今回訪れる来迎院に代表されるように、「天台声明(しょうみょう)」の修行の地でもありました。「呂律(ろれつ)」という言葉に代表される、声明の独特な旋律は、演歌など日本歌謡の源流ともいわれます。もちろん、大原と言えば、「♬京都、大原三千院」。この境内にたたずむ「往生極楽院」と、本尊阿弥陀三尊に心を奪われない人はいないでしょう。井上靖はそれを「東洋の宝石箱」と表現しました。勝林院の本尊は、ここで、法然が論敵を論破した際、光を発したという「証拠の阿弥陀仏」。寂光院は、壇ノ浦で助けられた建礼門院の隠棲の地。有名な柴漬けは、彼女と里人の交流から生まれたと伝わります。
(担当講師:加藤学)
「きょうと~大原三千院♪」と歌にもなった三千院は、大原を代表する天台宗の寺院だ。最澄が比叡山に延暦寺を建てた時に結んだ草庵が始まりとされ、天台三門跡寺院(他は青蓮院(しょうれんいん)、妙法院)の中でも最も歴史が古い。
1013年、寂源により、声明研鑽の地として建立された寺。良忍が来迎院を再興すると、勝林院を本堂とする下院と、来迎院を本堂とする上院が成立。これらを中心に僧坊が建立され、数多くの僧侶が声明の研究研鑽をする拠点となり、「魚山大原寺」と総称されるようになった。
呂川に沿って、三千院の南側を300m東に少し上って行くと、来迎院がある。
来迎院は1109年、声明中興の祖である良忍により、「天台声明の根本道場」として円仁開山の寺が再興されたもの。円仁が伝えた声明を「魚山声明」として集大成し、これが後に「天台声明」の主流となって今日に伝承されている。
寂光院の草創については、明確なことはわかっていない。寺伝では594年、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創し、太子の乳母が初代住職とされているが、来迎院を創建した良忍が開いたとの説もある。いずれにせよ、この寺で有名なのは、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった、安徳天皇の生母、建礼門院徳子が、壇ノ浦での平家一族滅亡後に生き残り、尼となって、侍女の阿波内侍(あわのないし)とともにここで余生を送ったことであろう。